子育てとか、30代のその辺の生活

30になりました。子供が2018年3月に生まれました。無職になりました。

33才の夏休み/神聖かまってちゃん

熱心に追ってるわけではないけど、近しい年代、近しいネットコミュニティーを歩いてきたから、なんとなく目がつくと追っかけている。

 

彼らの曲の中では、川本真琴が歌ったフロントメモリーや、アニメの主題歌になったOs-宇宙人とかあたりが好き。センチメンタルなメロディーをつくるのがうまいと思うので、女性ボーカルに歌わせるとぐっとくる。特に疾走感のある歌歌わせたら最強の川本真琴との相性は抜群だったと思う。

 

Youtube見てたら、新しいアルバムのリードトラックとして33才の夏休みという曲が出るらしい。

過去に「22才の夏休み」「23才の夏休み」という曲を出していたから、それの続編という感じなんだろうか。

元々芸風として、長すぎるモラトリアムというのか、無職や引きこもり、ニートが抱えるヒリヒリした不安を疾走感あるメロディーにのせて叫ぶのが得意というか、その辺を強烈な個性として持って登場してきたという認識をしていたから、メジャーデビュー?10年を超えて30歳になって、もうモラトリアムの不安なんかを代弁者として切実に歌うことが難しくなっている中で、どう変化していくのか、それとも変らないでいくのか、気になっていた。

 

以前の楽曲の「22才~」や「23才~」では、ちょうど大学4年生、社会人1年目というモラトリアムの終わりという時期を題材にしている。両方の楽曲で現れる印象的な歌詞として

「君が僕にくれたあのキラカード その背中に貼り付けてやるよ」

というフレーズがあり、もう20歳を過ぎているというのに、小学生時代に流行ったキラカードをモラトリアムの象徴として扱っており、歳相応に成長している「君」との隔絶の大きさが表れている。

 

「22才~」と「23才~」での違いというと、やはり「君」がこの1年で社会人になった点が大きい。

「22才~」では、あだ名があった10年前(小学生時代)を思い出して、何もかわってない(様な気がする)自分とかわっていく「君」を対比している。

これに対して、「23才~」では「僕」の方は大きく変わっておらず、いまだにキラカードを抱えている点は「22才~」と変っていないが、「君の貯金はいくらあるんだい?」と今までに無かった話題を「君」に問いかけており、社会のレールにのって社会人1年目をやっている「君」といまだにキラカードを抱えている「僕」との間にまた距離ができている。

 

いずれも「僕」は成長していく同世代からドロップアウトして、モラトリアムを送ってしまっている。それから、さらに10年たって「33才」にもなれば「僕」も変わる。

「33才~」では、「勇気を出せなかった事 結果がこのザマ」とは言うけれど、「甘酸っぱい可能性をまだ秘めている」と言って、前を見ている。

さらには、仕事においても、同年代のバンドが解散して、「他人事じゃねぇ」と思い、「あのニートにっこりと笑って」いると焦りを感じている。ここでの焦りというのは、22才や23才のときとは大きく異なり、何もしてない、勇気を出せず立ち止まってしまったことによる焦りでなく、何かやらなくちゃ、という前向きな焦りだ。

そして「案外慣れてっちゃうんだ人生 クソな暮らしも」と、まんざらでもない状況になっている。

 

疾走感のあるの子っぽい切ないメロディーにのせているところは変らないけれど、22才や23才のころと比べて、確実に前を向いて歩こうというエネルギーを随所に感じられる曲になっていて、モラトリアムの中、立ち止まって不安を感じていた10年前と大きく変ったなと感じた。

 

たしかに10代20代のどうしようもない将来への不安やドロップアウトしてしまったときの焦燥感というのは、痛く、目の前が真っ暗になるものだけど、案外何とかクソはクソらしく、人並みに生きていけてしまうものなのだ。

 

神聖かまってちゃんのメロディーは10代に突き刺さると思うけど、以前より歌詞は突き刺さりにくいかもしれない。けれど、30過ぎたおっさんがどれだけ10代20代の不安を描けるかといえば、描いたところで薄っぺらく、切迫感のない者になってしまうだろう。だとしたら、今の自分を描いていったほうがパイは小さくなるかもしれないけれど、誠実だと思う。